王貞治 世界新!(栄光の756号)

1977年9月3日午後7時10分6秒756号世界新!

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手に汗握りながら、この瞬間を見てました。とてつもない感動が蘇ります!
通算では868本塁打の王さん、結果的に通過点となった栄光の756号。
しかし、この瞬間を忘れられない!

(ダイジェスト版)

o756WR 投稿者 -reona

(第2打席全6球)

出典:wikipedia nori20519 様

(756号)
 “新記録の756号まであと40本で迎えた1977年、マスコミやファンの興味が王の「世界新記録」に集まる中、4月2日開幕戦(対中日、後楽園球場、通算2323試合目)の3回裏二死での第2打席に松本幸行の2球目真ん中低めのカーブを打って通算14本目の満塁本塁打を放ち好調なスタートを切ったかに見えたが、その後はなかなか打球が上がらず、4月は打率こそ.350台をキープしていたものの月間わずか4本塁打に終わる。続く5月は極度の不振に陥り、打率ベストテンからも名前が消えるほどになった。本塁打争いも好調なスタートを切った田代富雄、ハル・ブリーデン、山本浩二らに大きく差をつけられ、本人の口からも「アーロンの姿が見えたかと思ったら霞んでいく」と弱気な発言が出るほどだった。
しかし、37歳になった5月の終盤から徐々に調子を上げ、7月終了までに26本塁打を記録。そして例年最も本塁打を量産していた8月に猛スパート。8月11日には16年連続となる30号(通算746号)を記録し、本塁打王争いでも首位を走っていた山本浩を遂にとらえる。8月最も本塁打が出なかった期間は、節目かつ新記録へのカウントダウンが現実味を持ちだす750号達成時の9日間で、あとはほとんどコンスタントに本塁打を量産した。8月31日の後楽園球場での対大洋22回戦1回裏1死、午後6時37分40秒、出塁した土井正三を1塁に置いて三浦道男のカウント1ストライク3ボールからの5球目真ん中低めのカーブを打って滞空時間5秒の2ラン本塁打して23秒6、歩数64でダイヤモンドを一周し、現役19年目、通算2425試合目、10145打席目にしてアーロンに並ぶ755号(シーズン39号)を記録(アーロンは23年目、3275試合目に記録)。8月だけで13本塁打の猛チャージをかけた。
その3試合後、14打席目(通算7878打数目)の9月3日対ヤクルトスワローズ23回戦3回裏一死無走者の第2打席で、午後7時10分6秒、フルカウントでの6球目(試合開始から50球目)鈴木康二朗のど真ん中のシュートを滞空時間4秒でライトスタンドへ打ち返し、メジャーリーグ記録を抜く756号を達成した。
756号本塁打の表彰のために15万円分のカーネーションで飾られた表彰盾が贈られるはずとなっていたが、2日間本塁打が出なかったため、その分のカーネーションは無駄となった。また一・三塁側スタンドには記録達成が近づくとそれぞれ3つずつ(計6個)のくす玉が吊るされ、記録達成とともに一斉に割られ(くす玉は800号達成時にも用意され割られた)、「祝・王選手756号」の垂れ幕で祝福した。
この試合で、王は両親を後楽園球場に招待した。記録達成の瞬間同球場一塁側1階席で観戦していた両親の元に、記録達成を祝うファンから握手を求められた他、先述のカーネーションのプレートを王から直々に両親に手渡す瞬間もあり、球場からは「親孝行も日本一」の声が飛んだ。この試合途中で、長嶋は特にホームランをよく飛ばしたライトスタンドの応援団へのお礼を込めたファンサービスとして、ライトの守備位置に立たせるという計らいを見せた。
一方、756号を打たれた鈴木は当時、報道陣から取材攻めに遭っていた。これを慮った王は鈴木に声を掛け「俺のせいでえらいことになってしまったな。色々言われるだろうが、絶対に負けるなよ」と励ました。鈴木は「自分がこのまま潰れたら、王さんの記録にも泥を塗る事になってしまう」と奮起し、翌1978年には13勝を挙げてヤクルト球団史上初のリーグ優勝と日本一に導き、近鉄バファローズ移籍後には救援投手として活躍。プロ引退後も軟式野球に転向して永らく現役を続け、その後は野球ではなく、アマチュアゴルフで活躍していた。756号を打たれた投手には「勇気ある投手賞」としてサイパン旅行が送られることになっていたが、鈴木はプロの矜持としてこれを断っている。
日本テレビは当時巨人主催試合を独占中継していたが、この756号の本塁打は生放送できなかった。当時の中継は19時30分からの放映で、記録を決めた19時10分の段階ではそっくりショー(讀賣テレビ放送発)を放映していた。その為、視聴者からかなりクレームが付いたとされている。なお、記録達成の映像は中継開始と同時にVTR再生されたほか、当日のスポーツニュースおよび深夜の特番「おめでとう王選手 世界新記録だ756号!!」で繰り返し流された。
この偉業が称えられ、当時の福田赳夫首相から初の国民栄誉賞を授与された。また、756号を達成した後楽園球場では外野の落下地点に記念のモニュメントが設置された(現在は東京ドーム内の野球体育博物館に飾られている)。
王が756号を打った当時、日本では「世界一」と評されたが、ギネスブックは、球技においてはリーグのレベル等条件が必ずしも平等でないという観点から、競技全体の世界記録という概念を認めておらず、確認できる最高記録と一定のレベルのリーグ戦における記録を併記していることが多い(これは野球に限らず、どの球技についても同様である)。王の記録は、アーロン、バリー・ボンズやジョシュ・ギブソンの記録と並んで本塁打記録のひとつとして記載されている。また、本塁打においては球場の広さも重要な因子となるが、王の現役時代に巨人が本拠地としていた後楽園球場は、当時のメジャーリーグの球場と比較しても著しく狭い球場であった[28]。
米メディアの多くは日本の球場の狭さや投手レベルを引き合いに出して王の記録を「無価値なもの」とし、メジャーリーグでも非公認扱いとされている。しかし王を大いに評価する声も多く、ハンク・アーロン自身は王の記録達成に心から敬意を表して祝福し、フラミンゴの剥製を王に贈っている。また、王を尊敬するメジャーリーガーも少なくない。後述の#アメリカでの評価も参照。
756号を打った9月3日は深夜までTV出演やインタビュー、祝福の電話の対応などでほとんど眠れなかったにもかかわらず、翌9月4日の対ヤクルト戦にも普段通り出場し、10回無死一二塁に安田猛から通算757号となるサヨナラ3ラン(シーズン41号、サヨナラ本塁打8号)を放ち、優勝マジック13とした。これを含め、このシーズンは更に10本塁打を上積みし、自身3度目となる50本塁打を達成した。
記録への挑戦が続いた1976年・1977年の2年はそれぞれ49本・50本で再び2年連続の本塁打王に返り咲き、123打点、124打点(王の個人ベスト)で2年連続打点王と二冠、4度目の2年連続シーズンMVPに選ばれた。4度の2年連続MVP、9度のMVP選出は現在もプロ野球記録である。”
◎引用:wikipedia