森永マンナ

カメラのフラッシュ

カメラって云えば、今はデジタルで、それもスマホで、プロ顔負けの写真を簡単に撮れる時代になったけど、 70年代頃までは、技術がないとなかなか良い写真は撮れませんでしたね! 学校の集合写真の撮影の写真屋さんの機材ときたら、やたら大掛かりだったなあ^^ そして、今回のフラッシュです。 オートなストロボの出現で、連続で閃光させることが可能な時代となり、 少しづつ姿を消していったのが、80年代頃からでしょうか? (フラッシュの沿革) “1929年、ドイツのハウフ(Hauff )より世界初の閃光電球が発売された。閃光粉は撮影者のシャッター操作を見計らって手動発光を行う助手が必要であったが、閃光電球は閃光粉と違い電気で発光させるため助手が不要になり、また光量をシャッターに合わせて効率的に使えるようになった。 これに米ゼネラル・エレクトリック(1930年)、日本の東京電気(現東芝、1931年)、蘭フィリップス(1934年)と続き、特に報道関係で重用されるようになった。 戦後は小型低価格の規格が次々と現れ、アマチュア間にもフラッシュ撮影が普及した。後述のBC式発光器は小型軽量で、これを組み込んだカメラも現れた。1960年代からはストロボ(エレクトロニックフラッシュ)も普及してきたが、黎明期のエレクトロニックフラッシュは光量が小さくまたカラー撮影時の色再現が悪かったため、大光量を必要とする際やカラー撮影には閃光電球が多用された。ストロボは発光の持続がミリ秒より短いため、高速シャッターではスリット状になるフォーカルプレーンシャッターで日中シンクロ撮影を行う場合に対応できず、燃焼時間の長い(FP級)閃光電球が必要だった。 しかし大光量のストロボが製品化されるに従い、初期投資は低くても経費のかかる閃光電球撮影は1980年代中頃から廃れていった。さらに、発光が数十ミリセコンド持続するストロボが出現し、FP級閃光電球の必要性もなくなった。” ◎引用:wikipedia

懐かしの方向指示器(アポロ式)

あの頃は何にも意識してなかった。でも、路線バスが、ボンネットバスから 現代のスタイルに変わって、そして少し時が流れて、 あれ? 確か前のバスのウインカーって、耳が出てたなあ。。。 そんな程度の意識でしたが、今考えると、すごーく懐かしい。アポロ式って言うんですって^^

セパレート型ステレオ

一体型からスピーカーが分離できるこのタイプ、 60年代半ば〜70年代半ば頃まで、 各家庭にかなり登場しましたよね! 我が家に鎮座したのは1970年頃。 もう興奮しました! 時間さえあれば、ずっとレコード聴いてましたね! ただ人はよりよい音を目指して、 どんどん高性能のアンプ、スピーカー、レコードプレーヤー、デッキ、、 そう、、時代はコンポにシフトして行き、 このセパレート型は姿を消して行きました。 懐かしい思い出の電化製品です。

野球盤

小さい白いにわとりは、、、

小学校1年生?だっただろうか? ものすごく考えさせられた、そしてショックだった物語。 「小さい白いにわとり」 小さい白いにわとりが、こむぎのたねをもってきて、みんなにむかって言いました。 だれがたねをまきますか。 ぶたはいやだと言いました。 いぬもいやだと言いました。 ねこもいやだと言いました。 小さい白いにわとりは、ひとりでたねをまきました。 小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。 だれがむぎをかりますか。 ぶたはいやだと言いました。 いぬもいやだと言いました。 ねこもいやだと言いました。 小さい白いにわとりは、ひとりでむぎをかりました。 小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。 だれがこなにひきますか。 ぶたはいやだと言いました、 いぬもいやだと言いました。 ねこもいやだと言いました。 小さい白いにわとりは、ひとりでこなにひきました。 小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。 だれがこなをこねますか。 ぶたはいやだと言いました。 いぬもいやだと言いました。 ねこもいやだと言いました。 小さい白いにわとりは、ひとりでこなをこねました。 小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。 だれがパンにやきますか。 ぶたはいやだと言いました。 いぬもいやだと言いました。 ねこもいやだと言いました。 小さい白いにわとりは、ひとりでパンをやきました。 小さい白いにわとりが、みんなにむかって言いました。 だれがパンをたべますか。 ぶたはたべると言いました。 いぬもたべると言いました。 ねこもたべると言いました。   いま話題!ミリオン動画がオモシロイ!

☆番外編(クラシック)34年(昭和09年)式.デ ソート エアフロー シリーズSE (U.S.A/De Soto)

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=PQOh-CWpOu0]◎撮影場所 トヨタ博物館“多くのメーカーがまだ段階的に流線化を行なっていた1934年、クライスラーとデソートが突如として発表したエアフローは、進歩的すぎたため失敗に終わったが、当時の常識をはるかに超えていた。エンジンを前車軸の真上に置いて重量配分を変えたことで拡大した乗り心地のいい室内、現代のモノコックに近いボディ構造など、あらゆる点で画期的だったのである。このデソートのシャシーやボディ構造がトヨダAA型の開発に与えた影響は大きかった。 ” ◎引用:トヨタ博物館表示 In 1934, when many carmakers were still only cautiously approaching streamlined styling, Chrysler and De Soto went ahead and released the Airflow. Although...

85年式、トヨタMR2(222D)

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=7RPR0TgYKvA]◎撮影場所 東京MEGAWEBヒストリーガレージ“FISA(国際自動車スポーツ連盟)が発表した「グループS」構想に沿って開発を進めた、MR2ベースの4WDラリーカー。結局「グループS」構想の立ち消えにより参戦は幻となった。” ◎引用:東京MEGAWEBヒストリーガレージ

キックの鬼 沢村忠

鉛筆メーカー

三菱、トンボ、コーリン、日本の3大鉛筆メーカーが懐かしい^^ 三菱、トンボは現在も健在! コーリンはwikipedia見ると、いろいろと難があったようです。 1997年に国内では廃業。2009年に復活し「コーリン」ブランドの文房具が、販売されるようになったとのこと。 こうやって、鉛筆の画像を眺めてみると、 いろんな思い出がよみがえってきます^^ 三菱鉛筆 - Wikipedia トンボ鉛筆 - Wikipedia コーリン鉛筆 - Wikipedia

60年式プリンス スカイライン スポーツ BLRA-3

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=0b1VQ05D1sM] ◎撮影場所 日産ヘリテージコレクション “デザイン先進国イタリアの著名デザイナー、ジョバンニ・ミケロッティのスタイリングによるスカイライン スポーツは、1960年、本場イタリアのトリノ国際自動車ショーでデビューしました。従来の国産車には全くなかった高級スポーツクーペで、イタリアのデザインを採用した初の国産車としても知られます。 このクルマは、イタリアの工房で作成され、トリノショーに出品されたショーカーそのものです。生産車とは異なり、インサイドミラーには、1960年のローマオリンピックを記念した五輪マークが刻印され、他にもグリルのバッジやエンブレム等、生産型とは微妙な差がみられます。ショーにはこの青のクーペの他に、白のコンパーチブルも展示されました。エンジンとシャシーはグロリア用を流用し、1862cc の直列4気筒は94馬力を発生しました。” ◎引用:日産ヘリテージギャラリー表示

60年式、三菱 シルバーピジョン C-111(210cc)

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=_tAWliF94g8] ◎撮影場所 三菱オートギャラリー “スクーター全盛期にいっそうのデラックス化が進み、従来の開発思想を一新した大型スクーター。このためエンジンはオーバーヘッドバルブ(OHV)式とし、駆動方式には初めてドライブシャフトを採用した。最高速度も95km/hと大幅に向上した。” ◎引用:三菱オートギャラリー表示
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Most Popular

60年式、HONDA C100 (ボスキット装着車)

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=o3b9rT_qiMI?rel=0] ◎撮影場所 ホンダコレクションホール “アメリカ向けスーパーカブC100、C102を対象に制作されたカスタムキットを組み込んだモデル。ボスキットは、当時流行のストリートスクランブラー的スタイリングを狙い、CA105TまたはCT90用のアップマフラーとパイプハンドル、フェンダーなどで構成された。” ◎引用:ホンダコレクションホール表示

84年式、ホンダ NS250R

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猛烈ダッシュ・丸善ガソリン(1969年)

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=b5dgWaRsjI4] 出典:youtube小川ローザさん起用の丸善ガソリンのCM、『おう、モーレツ!』 これ、歴史に残るCMとなりあした。大好き^^ でも当時は見るのがちょいとはずかしかったかなあ〜^^

ダイヤモンドゲーム

うーん、夢中でやったなあ、ルールもシンプルだったから、子供でも興奮して遊んでた。 飛び越えるの快感だったね^^ これ歴史は古いんですよね!源流は1890年代とか。 緑→赤→黄の順で、相手、味方関係なく1つ分だけ跳び越えて、空いていれば、連続して跳び越える。この連続しての跳び越えが気持ちよかった^^

ジャングル大帝(65’10月〜)/ジャングル大帝進めレオ!(66’10月〜)

素晴らしいアニメでしたね!たまらなく好きでした!今、この年になって、見直すと、内容も、アニメーションの技術も凄い高い!不朽の名作ですね! 最初のシリーズ、ジャングル大帝のOP [youtube https://www.youtube.com/watch?v=1zu9JHiYKvE] 出典:youtubeこちらは、弘田三枝子さんが唄ったエンディング [youtube https://www.youtube.com/watch?v=LdtNupGGy8Q] 出典:youtube2つ目のシリーズ、ジャングル大帝進めレオ!のOP [youtube https://www.youtube.com/watch?v=BEaR3YvBT6k] 出典:youtubeあらすじ (ジャングル大帝/65’10月〜) “ジャングルの王として君臨していた白いライオン・パンジャは人間に捕らえられた妻・エライザを助けようとして銃弾に倒れた。エライザを動物園に入れるため、人間たちが船で輸送する途中、エライザはパンジャの血をひく白い雄ライオン・レオを出産。レオを動物園などに入れられる訳にはいかないと、エライザはレオを脱出させ、「ジャングルへ戻りなさい」と命じる。その後、嵐に巻き込まれ船と共にエライザは沈んでしまう。レオは心優しき人間のケンイチたちに助けられ、ジャングルへと戻る。レオは人間たちの文化を活かしてジャングルを改革し、そこにいる仲間たちを守り、人間語も話せるようになる。そして、ジャングルを荒らす人間たちと戦い、勝利、そして、幼なじみの雌ライオン・ライヤと結婚する。” (ジャングル大帝進めレオ!/66'10月〜) 結婚したレオとライヤの間に2匹の子どもが生まれる。オウムのココが名付け親となり、「寝る」と「起きる」をひっくり返し、男の子をルネ、女の子をルッキオと名付ける。ジャングルで平穏に暮らすレオたちだったが、幻の石である「月光石」を狙って、人間たちが再びやって来る。さらに人間世界に憧れるルネが家出をしてしまったり、ライヤが恐ろしい伝染病にかかってしまったりと事件が勃発。レオはジャングルと愛する仲間たちを守ることができるのか。 ” ◎引用:wikipedia

 

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