71年式、いすゞ 117 クーペ PA90

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=WCCWPbs0OWQ?rel=0] ◎撮影場所 東京MEGAWEBヒストリーガレージ “美しいスタイリングでファンを魅了した高級ツーリングカー、いすゞ117クーペ。デザインを担当したのは、当時カロッツエリア・ギア社の若手有望デザイナーであったジョルジオ・ジウジアーロ。木目仕上げのインストルメントパネルをはじめとした内装も高級感にあふれ、その性能とあいまって上級オーナーやマニアに受け入れられた。” ◎引用:東京MEGAWEB

映画 野生のエルザ(日本公開1966年)

ああ、『野生のエルザ』。リアルタイムではないですが、数年後、テレビのロードショーで見て、大きな感動を頂いた映画でした。特に野生に戻したエルザとの再会を果たすラストシーンはぐっときましたねー。[youtube https://www.youtube.com/watch?v=GmvSmVL9JMc] 出典:youtube (ストーリー) “1956年、ケニアの狩猟監視官であるジョージ・アダムソンは、人食い事件で雌雄のライオンを射殺し、その子供である三頭の赤ん坊を家に連れ帰った。ジョージの妻ジョイは、前例のない子ライオンの人工保育を成功させ、三頭はアダムソン家で育っていった。しかし、野生の生活を知らないライオンは檻の中で生きるしかない。ジョイは泣く泣く二頭をオランダの動物園に送ったが、一番小さいエルザだけは、どうしても手放すことが出来なかった。 狩猟監視官に定められた一年間の長期休暇で英国に帰る日も近づいていた。動物園ならエルザは安全に暮らせると、ジョイを諭すジョージ。しかしジョイは、エルザを野生に返すという驚くべき決意を口にした。 三か月の猶予を得たジョイ達はサバンナにキャンプを張り、エルザに狩りを教えるための訓練を開始した。しかし、前代未聞の試みはなかなか上手く行かず、衰弱したエルザは重い病気を患った。日数も残り少なくなり、諦めかけた頃、ついにエルザは獲物を倒し、野生のライオンの群れに迎え入れられた。 その後、長期休暇に入ったジョイとジョージは、早めに日程を切り上げてケニアに戻り、エルザと別れた自然保護区を訪れた。エルザの姿を確認できないまま最終日を迎え、諦めてキャンプを畳もうとした時、三頭の子ライオンを連れたエルザが元気な姿を見せた。以前と変わらずジョイ達に甘えるエルザは、野生と人間界の懸け橋となったのだった。” ◎引用:wikipedia

64年式、三菱シルバーピジョンC-140

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=NGA0z3Ft8JA]◎撮影場所 三菱オートギャラリー “1946年のC-10型登場以降、三菱のスクーターは性能・スタイルの向上によりヒットを続け、長期にわたって高いシェアを記録したが、1964年に製造・販売を打ち切った。写真の展示車は、初代デボネアのデザイナー、H.ブレッツナー氏によるアメリカンスタイルのC-140型で、シルバーピジョン最後のモデルとなった。” ◎引用:三菱オートギャラリー表示

女呼んでブギ(唄:サザン・オールスターズ)1978年

この曲、最初耳にした時、吹っ飛びました! こんな歌詞が許されていいのかと。。^^ ま、でも、ノリのいい曲で、いつのまにか口ずさんでいましたねー。 https://dailymotion.com/video/x51y7pv ◎作詞/◎作曲:桑田佳祐

59年式.シボレー インパラ(U.S.A/GM)

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=hYKA28lbh3I] ◎撮影場所 東京MEGAWEBヒストリーガレージ “飛行機のコックピットのような計器盤、リヤドアに付けられたミサイルのようなオーナメント、戦闘機を思わせるフロントウィンドウ。こうした近未来的なデザインは当時、NASA(アメリカ航空宇宙局)が開始した宇宙探査への関心の高さが大きな影響を与えているといわれている。1960年に年間50万台近い売り上げを記録した不朽のベストセラー。” ◎引用:東京MEGAWEB表示

映画 フラッシュダンス(日本公開1983年)

フラッシュダンス、何もかもが刺激的でしたねー。 ジェニファー・ビールスの夢に向かってハングリー突き進む姿、 彼女自身の容姿と、ダンスの美しさが記憶に焼き付いています。 [youtube https://www.youtube.com/watch?v=Ht1YznzzlsI] 出典:youtube HD Film Tributes 様(ストーリー) “舞台はピッツバーグ。 プロのダンサーになるという夢を抱きながら、昼は製鉄所で溶接工、夜はキャバレーとなる近所のバー、マウビーズでセクシーなダンサーをしながらダンスの練習に励む18歳の女性、“アレックス”アレキサンドラ・オウエンズ(ジェニファー・ビールス)。倉庫を改装した家で犬のグラントと共に生活をしている。 アレックスは身寄りがなかったが、マウビーズの同僚ウェイトレスでプロ・スケーターを夢見るジェニー、ジェニーの恋人でコメディアン志望の即席料理人リッチーと親しくしていた。 ある夜、客の中に彼女が昼間働く製鉄所の二枚目社長ニック・ハーレイ(マイケル・ヌーリー)を見つける。彼はアレックスが従業員の1人であることに気付き、ニックは仕事中に彼女に言い寄るが、彼女は彼のくどき文句を最初ははねつける。また近所のストリップ・クラブのザンジバーのジョニー・C(リー・ヴィング)は彼女をスカウトしようとしていた。 良き相談相手である、リタイアしたバレリーナでダンスの師であるハンナ・ロング(リリア・スカラ)に会った後、アレックスはピッツバーグのダンサー養成所のオーディションを受けようと応募用紙をもらいに出かけるが、応募用紙にダンス経験や教育の有無を記入する欄があり、他の応募者達はバレエ等ダンスの基礎を習得した者ばかりで、独学でダンスの練習を続けてきたアレックスは自信を喪失し、そのまま帰ってきてしまう。 ある日リッチーとアレックスがマウビーズを出ると、ジョニー・Cとボディ・ガードのセシルに絡まれる。ニックが仲裁に入り、アレックスを助けたことで2人の関係が始まる。 ジェニーはスケートの競技会に出場するが2回転倒し敗北する。リッチーはコメディアンになるためピッツバーグを離れロサンゼルスに向かい、彼女は夢に挫折しジョニー・Cと付き合うようになりザンジバーでトップレスのダンサーになってしまう。 ニックが見知らぬ女性とバレエに来ているのを見つけ、アレックスは彼の家で暴れるが、その女性は彼の元妻ケティ(ベリンダ・バウアー)で慈善行事の会議のために会っただけであった。アレックスとニックは仲直りをし、ダンサー養成所のオーディションに再び挑戦する勇気を取り戻す。ニックはコネを使い、アレックスが合格するよう仕向ける。アレックスは自身の実力を試したかったためニックに激怒し、オーディションを受けることをやめた。友人が夢に挫折し、ハンナの突然の死を目の当たりにし自身の未来に失望しかけるが、もう一度オーディションを受けようと決意。 オーディションで最初はよろめくが最初からやり直し、ピッツバーグのストリートで見たブレークダンスを取り入れ学び練習してきた様々な表現の伝統にとらわれない独創的なダンスで挑む。初めは全く興味を示さない審査員であったが、予想もしないダンスに圧倒され見事合格を勝ち取る。会場から喜んで出てきたアレックスを待っていたのは、犬のグラントとバラの花束を抱えたニックだった。二人は抱き合い、喜びを分かち合うのだった。” ◎引用:wikipedia

68年式、日産 プレジデント 150型

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=XsE3JGz3fak?rel=0]◎撮影場所 日産ヘリテージコレクション “1965年(昭和40年)、セドリックスペシャル(50型)の後継車種として、当時のインターミディエイトクラスの米国車に比肩する新型高級乗用車『プレジデント』が発表されました。外観は曲線によるハーモニーをテーマに、エアロダイナミックが融合した「現代の曲線」が基調とされました。エンジンは、ハイヤー使用を想定し経済性を考慮した直列6気筒2974ccと、静粛性向上のためのオイルタペットやサイレントチェーンを採用した余裕の180馬力を誇るV型8気筒3988ccの2種を採用。シャシーにも、アンチハーシュネス、アンチノーズダイブ、アンチロール性能を持った速度比例型ショックアブソーバーを採用し、ブレーキはマスターバック付きディスクブレーキを採用するなど先進技術が数多く投入されました。コンフォートアクセサリーと名付けられた快適装備は、乗用車として国内初採用のパワーステアリング、熱線入りリアウインドウ、防眩インサイドミラー、無段変速ワイパー、リモコン式フェンダーミラー、トランクマウントの後席用クーラー等30種類を超え、まさに日本を代表する高級車の最高峰にふさわしいものでした。このクルマは1968年製で、V8エンジン搭載のC仕様です。” ◎引用:日産ヘリテージコレクション表示

76年式、スズキ RM250

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Y_pk0TUoj7c]◎撮影場所 スズキ歴史館 “RM250は、深く前傾した窒素ガス封入式ショックアブソーバーをフレーム中央部に装着し、ラフロードでの操縦性を高めました。パワーリード機構採用のエンジンはスロットルレスポンスが良好でした。スズキのオフロード車の代表として、現在もラインナップされているロングセラーマシーンです。” ◎引用:スズキ歴史館表示

59年式、オースチンA50 ケンブリッジサルーン

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=pPbwcksnYUE?rel=0&controls=0&showinfo=0]◎撮影場所 日産ヘリテージコレクション“戦後、乗用車の生産が全面的に解除されたのは1949年(昭和24年)10月のことでした。時間的にはわずか4年の中断とはいえ、日本の自動車産業にとっては大きな痛手となりました。そこで、政府は将来を見据えて海外メーカーとの技術提携を結び、生産や設備に関する技術やノウハウを吸収することを奨励しました。日産は、1952(昭和27)年に英国のオースチン社と技術提携し、年間 2000台分の乗用車部品を輸入して日本での組立を開始します。1953(昭和28)年のA40型組立開始当初の国産部品はガラス・バッテリー・タイヤなどわずかでしたが、徐々に国産化が進み、1955(昭和30)年から生産を行ったA50型では初期から国内調達部品が200点以上を数え、ついに翌年8月には全部品が日本製となりました。搭載される 直列4気筒OHVエンジンの最高出力は57馬力で、最高速度130㎞ /h をマークしました。このクルマは、提携で習得した技術の集大成で、1959(昭和34)年12月28日に製造された最終オフライン車です。” ◎引用:日産ヘリテージコレクション表示 Austin A50 Cambridge Saloon When Austin carried out a model change in England (September 1954), Nissan followed suit and switched...

懐かしい、大樽のオートバイサーカス

半世紀前、このバイクのサーカスを見ました。 恐々と大樽の中を覗き込み、樽の最上部、自分の目の前を通り過ぎるバイクの曲芸に、怖さと、華やかさと、いろんな世界があるんだなあと感動したことを覚えています。 しばらくその存在を忘れていましたが、まだ継承され続けてることに感動です。日本における樽型オートバイサーカス最期のライダー伊藤秀樹氏引退後、キグレサーカスのアイアンという球形鉄籠のオートバイサーカスのスターだった、藤田昭範氏が継承し。ワールドオートバイサーカスを運営していとのこと。[youtube https://www.youtube.com/watch?v=rZp1xv039Js] 出典:youtube hudou123 様