72年式、ヤマハTX750

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Ttf2EoNxyos] ◎撮影場所 ヤマハコミュニケーションプラザ “ヤマハ発動機初の750CCロードスポーツ。多気筒エンジンが主流を占める大排気量クラスに、あえて並列2気筒のバランサー付きSOHCエンジンを投入。さらにモーターサイクル初のバイブレス機構、ドライサンプ潤滑、対抗ピストン式キャリパー採用のディスクブレーキ、アルイリムなど多くの先進技術を随所に盛り込み、独特のトルク感と鼓動感、スリムな車体による軽快な操縦生を実現した。” ◉引用:ヤマハコミュニケーションプラザ表示

アイスキャンデーの箱(冷蔵庫)

昭和30年代までは、まだこのアイスキャンデーの箱(冷蔵庫)は、 あちこちの駄菓子屋さんで見かけましたね! 夢がいっぱい詰まってました。 アイスキャンデー、あ、それからホームランバーの専用のも大好きでした^^蓋を開けると、 中はこんな感じ、魔法瓶のようになってたんですね!

☆番外編(クラシック)47年(昭和22年)式.MG ミジェット タイプ TC(U.K./MG)

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=31aRexrsiUU]◎撮影場所 トヨタ博物館“量産車モーリスのパーツを使用して1936年に発売したMGミジェット・Tシリーズは安価でありながら本格的な味わいを持ったスポーツカーとして人気を博した。その後、数多く誕生する英国製ライトウェイト・スポーツカーの先駆けとなりました。第2次世界大戦後、ヨーロッパに駐留したアメリカ兵が欧州製スポーツカーの軽快さに魅せられ、その後アメリカでスポーツカーブームが起きます。このタイプTCは戦前型であるTBのコックピットを拡大して居住性を向上させたモデルで、後継のTD、TFを含め生産車の多くが輸出され、アメリカのみならず世界中にスポーツカーの楽しさを伝えました。” ◎引用:トヨタ博物館表示 MG MIdget Type TC Built with compornents from the massproduced Morris, the MG Midget T series was introduced in 1936 as an affordable yet...

1969年式、グロリアスーパーデラックスPA30

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=OzZrA1CsqPw] ◎撮影場所 日産ヘリテージコレクション“プリンス自工と日産自動車の合併に伴って「ニッサン・グロリア」として1967年(昭和42年)4月にデビューした三代目・A30型は、実質的には旧プリンスの開発車ですが、先代までの後輪ド・ディオンアクスルは一般的な縦置きリーフ・リジッドに変更されるなど、徐々に日産車との部品共用化が図られました。A30型のスタイリングは、前年に発表された貴賓用リムジン「ロイヤル」に似たイメージを持たせ、長く幅広く低重心の風貌は「ロイヤル・ライン」と呼ばれました。特徴的な縦型4灯式のヘッドランプにより、「タテ目のグロリア」とも通称されます。1969年(昭和44年)10月の小変更でプリンスからのG7型エンジンも日産のL20型に換装。その後のグロリアは、次の4代目(1971年・230型)以降、ボディもセドリックと共通化されました。このクルマは、G7型エンジン搭載時代のスーパーデラックス、コラムM/T仕様です。” ◎引用:日産ヘリテージコレクション表示

☆番外編(クラシック)45年(昭和20年)式.MG TC(U.K./MG)

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=aqXjNIdXT48?rel=0]◎撮影場所 東京MEGAWEBヒストリーガレージ“1945年に戦前のTBとほぼ同じ型で発売された戦後のMG最初のモデル。1949年までに約1万台が生産され、ヨーロッパに進駐したアメリカ兵によって多くがアメリカへ持ち帰られアメリカでのMGの名を一気に高めたと言われている。わずか1250ccという小排気量ながら、小さな車体、軽い車重、短いホイールベースなどにより軽快な操縦性を示すスポーツカー。” ◎引用:東京MEGAWEBヒストリーガレージ表示

☆番外編(クラシック)43年(昭和18年)式.フォード モデルGPW “ジープ”(U.S.A./Ford)

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=qBrsaTyUcfU?rel=0] ◎撮影場所 トヨタ博物館 “第2次世界大戦直前の1941年に軍用偵察や、連絡を目的として生まれたいわゆるジープは、かつてわれわれの知らなかった新しい可能性を持つ自動車として、さまざまなかたちで人類に貢献した。たとえば、4輪駆動を使うことによって得られる不整地走破能力は、生活や行動の範囲を広げたことをはじめ、自動車技術においても高く評価できる。乗用車のように美的な意識を持ってつくられたわけではないが、ボディ各部の機能を目的別にボルトオンしただけの合理的かつ経済的な構造は、純粋な機能美を持っている。つまりジープこそ、ヘンリー・フォードがモデルTで出したトランスポーターとしての自動車の機能を徹底的に追求した本来の姿であり、戦後のクルマづくりの基本にもなっているのである。” ◎引用:トヨタ博物館表示

谷岡ヤスジ『ヤスジのメッタメタガキ道講座』1970年

大人の世界にも、普通に流行ってましたね! つうか、どっちかていうと、大人になってからの娯楽だったか?^^ 「アサー!」、「鼻血ブー」、「オラオラ」、「朝に近い昼ー。。」流行が満載漫画でした^^ “1970年から1971年にかけて、『週刊少年マガジン』(講談社)にて連載された。 子供達の過激な日常を描いたギャグ漫画作品。人を殴る、蹴る、刃物が飛び交う、子供が平気で親や教師を侮辱する、派手に鼻血を噴出するという、かなり危険で過激な描写が特長だった。” ◎引用:wikipedia 谷岡ヤスジ - Wikipedia ◉ヤスジのオラオラ節(1971年)映画『谷岡ヤスジのメッタメタガキ道講座』主題歌 https://youtu.be/PViLqbZQfUs 出典:youtube kiju736 様

ピップエレキバンのCM(1979年)

https://dailymotion.com/video/x4w5lmp 出典:dailymotion このCM、会長のお人柄がでる微笑ましいcmでしたね^^

☆番外編(クラシック)39年(昭和14年)式.パッカード トゥエルヴ “(U.S.A/Packard)

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Qvvexp6NLiI]◎撮影場所 トヨタ博物館“1915年に登場して一躍'20年代の花形になったパッカード・トゥインシックスは、'30年代に向かって大きな変貌を遂げるとともに、名前もパッカード・トゥエルヴに変更されました。そして、この新しいモデルを語るとき、なくてはならない人物がアメリ力大統領フランクリン・デラノウ・ルーズヴェルトであろう。彼もまた、パッカードを選び、その信頼性と豪快なパワーに魅せられたひとりだったのである。この専用車は、12気筒がのせられた最後の年、1939年につくられたもので、格式の高いロールソン(ロールストン)がボディを架装。防弾ガラスをはじめ大統領専用の補強は装甲車並みだが、軽快なツーリングボディはルーズヴェルトの笑顔とともに華やかなアメリ力の象徴である。” ◎引用:トヨタ博物館表示 Packard Twelve "Roosevelt's Car" Released in 1915, the Packard Twin Six with a V12 engine quickly gained popularity, and went on to dominate the...

映画 ブラザー・サン シスター・ムーン(日本公開1973年)

あまりの心の美しさ、清らかなエネルギーに触れ、 神と共に生きることの崇高さに心打たれた中学生の私でした。 ドノヴァンの主題歌も大好きです。 https://youtu.be/6vp8cDBK5jY 出典:youtube isibukankichi 様 “イタリアのアシシに住む商人ピエトロ(L・モンタギュー)とピカ(V・コルテゼ)の間の一人息子として生まれたフランチェスコ(G・フォークナー)は陽気でいたずらだった。彼には4人の遊び仲間がいた。見習い修道士で勉学と宗教に打ち込むシルベストロ(M・フィースト)、セックスへの興味一辺倒のジオコンド(N・ウイラット)、理想に燃える騎士ベルナルド(L・ロウソン)、法学生のパオロ(K・クランハム)だった。18歳のとき、アシシとペルジアの間に戦争が起こり、4人の仲間と、グィード司教(J・シォープ)の祝福をうけて戦場におもむいた。だが、凄惨な戦いに敗れ、熱病に冒されて帰ってくると何週間もベッドに横たわり、生死の間をさまよった。 ある朝、窓辺の小鳥の声に眼を覚ました。無心に手をさしのべながら近づき、屋根の上にでた彼は、小鳥の後について手をはばたかせた。まるで大空へ飛びたつかのようだった。その向こうには、野や山が開けていた。フランチェスコに自分でも気づかないほどの大きな変化が起きていた。ある日、果樹園で休んでいた彼に、美しい娘クレア(J・ボウカー)が近づいてきた。「あなたは気が変という噂よ。小鳥のように歌い、蝶を追い花を見ているから。でも私には、狂っていたのは戦争にいく前だと思えるわ」。 彼は自然の中で生きものの素晴らしさを悟った。次第に彼の眼は自分の周りの人間を見つめだした。働く者、老いた者、病いに苦しむ者……教会の中には富める人々が、外には貧しいながら懸命に祈る人々がいた。あまりにも大きなへだたり、神はこれを許すのだろうか。彼は「NO!」と叫ばずにはいられなかった。家に帰ったフランチェスコは店にある高価な布を窓から投げだした。激怒した父親は彼をひきずり、領事(A・チェリ)の裁きを乞うたが、何もならず、フランチェスコは着ている服を脱ぎ、両親に返した。「もうあなたの息子ではない。人間に大切なのは富ではなく心です。これからはキリストのように乞食になります」。 裸になり城門を出た彼は、太陽に向かって両腕を広げながら野に向かった。雪が降り、真っ白におおわれた野に一人、フランチェスコはサン・ダミアノ教会建設をめざしていた。十字軍の英雄として帰ってきたベルナルドは、その勇気ある姿に強く打たれ、彼に協力を申し出た。また昔の親友たちも次々と加わっていった。髪を切ったクレアも参加し、貧しいが素朴な人々が集まるようになった。 だが司教の陰謀によってサン・ダミアノ教会は焼かれ、仲間の一人が殺されるに及んで、フランチェスコは自ら問うのだった。私のしたことが間違いだったのか? 彼は仲間たちとローマ法廷に請願に行くことにした。やっとのことでローマ法王(A・ギネス)に謁見が許され、キリスト教の腐敗を説いた。法王はいたく心を動かされ、彼に跪いた。貧しい人々から聖人と呼ばれたフランチェスコは故郷に帰った。彼にはやはりここが一番よかった。鳥が歌い、小川がささやいていた。彼は兄なる太陽や姉なる月のように安らかで鳥やけだもののように幸せだった。” ◎引用:wikipedia