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光速エスパー(1967年8月〜)

イー、エス、パー で飛び立つところ、かっこよかったなあ!それから、いろんな機能が詰まっている、“強化服”と呼ばれる服も着てみたかった。 毎回楽しませていただきました。 あ、そうだ、エスパー役は、三ツ木清隆さんでしたね^^ストーリー “ごく普通の中学生、東ヒカルは、両親と共に気球の遊覧飛行を楽しんでいる際に墜落事故に遭ったが、全員奇跡的に一命を取りとめた。事故の真相は、ギロン星人に母星を滅ぼされ、地球にたどりついた善意の宇宙人エスパー星人の夫妻の飛行音波の衝撃で気球が爆発して起こったもので、実はヒカルの両親はその際に死亡しているが、エスパー星人の夫妻がヒカルへの贖罪の意味も込めヒカルにも秘密で憑依しており、以後、家族として生活している。 そして、ギロン星人も地球にやってきたことを察知したエスパー星人らは、光波エネルギー研究所で強化服を開発中の朝川博士(ヒカルの叔父)に、ひらめきを模したテレパシーを送り、エスパー星の科学力を反映させて強化服を完成させる。 そして、強化服装着者に選ばれたヒカルは「光速エスパー」として、小鳥型サポートロボット「チカ」を介して常に共にあるエスパー星人の母と共に、ギロン星人の地球侵略作戦ほか数々の怪事件に挑戦していく。” ◎引用:wikipedia

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三波伸介さんの魅力溢れる「お笑いオンステージ」NHK(1972年4月〜)

子どもから親のイメージを聞きながら似顔絵を描く、という減点ファミリーが大好きでした。 毎回、笑わせてくれましたし、とても絵心のある方でしたね^^ 番組は10年間の長寿番組。 こんな番組今ではないですよね、もっと続いてほしかったぁ。。。 三波伸介さんは、1982年12月、52歳没。ご冥福をお祈りいたします。

アグネスラム

1975年ごろ、 突然ブラウン管(古っ)笑 に現れて、瞬間で、 日本の男たちをメロメロにしたアグネス。 いやあ、可愛かった!!(その突然現れたテレビCM: 後のテレビ番組でCMが紹介されている動画) https://dailymotion.com/video/x1330ua (ハウスフルーチェのCM) [youtube https://www.youtube.com/watch?v=Q9AV_R_ZbPU] 出典:youtube

アリナミンAのCM・鍛えれば全身バネになる(1981年)

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=QC3jINUqsFk?rel=0&controls=0&showinfo=0] 出典:youtube1981年、アリナミンAのCM。俳優名高達郎さんが挑戦する「超人シリーズ」の中の、物凄いマサイ族のジャンプ、こりゃ、トンんでもないジャンプ力でしたねー。
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ロンパールーム(1963年10月〜)

私の世代は、うつみみどりさん。この番組は1963年スタートで、 2代目となる、うつみみどりさんは1966年からとか、、 「鏡よ鏡よ鏡さん、、」目を瞑れば、あの場面がよみがえる^^ (概要) “司会のお姉さんは「先生」と呼ばれていた。初代先生は並木翠(夫の海外赴任に伴い降板)、2代目先生はうつみ宮土理(出演当時の芸名は「うつみみどり」である)。以降、「みどり先生」が定着し、3代目以降も「みどり」を名乗るようになる。並木翠は番組開始前にニューヨークへ渡り、世界各国の「先生」と共に本番組制作の研修を受けた。2代目先生のうつみ宮土理は本番組でデビューし、出世作となった。 放送開始から1年間は生放送で行われていたが、以後は録画放送(後述の「きれいなきんたま」事件では既に録画放送だった)。収録は2週間分まとめて行われ、2週連続で同じ幼児が出演した。その際に服は着替えたという。1回に出演する幼児は6人。最終日の土曜日(のちに金曜日)には幼児たちの友達も出演していた。 番組の構成は「教育 - 遊び - おやつ - 絵本」という流れで、これはアメリカ版と同じである。” ◎出典:wikipedeia   [youtube https://www.youtube.com/watch?v=HPMx4gtEk8Y] 出典:youtube TOKYOGASNINGEN 様

62年式、三菱 コルト 600

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=sd9JReQyTeQ?rel=0]◎出典: 旧車パラダイス “『コルト600』は『コルト』の名を冠した最初の車で、1962年(昭和37年)6月に発売しました。『三菱500スーパーデラックス』が、マカオ・グランプリレースで優勝を飾るなど、専門家からはその性能が高く評価されていましたが、各社から多彩な軽自動車が出始め、税法上などで有利な軽自動車に人気が集まっていました。この状況を打破するため、『三菱500スーパーデラックス』のシンプルすぎるといわれたスタイルと装備を一新。ボディの前半分と後端の外形を細長く、やや尖ったスタイルに変更するとともに、インテリアをリファイン。モノコックボディ、リヤエンジン、リヤドライブは継承しながら、コラムシフト、ベンチシート、拡大されたトランクルームなどにより商品力を向上させました。このクルマも、1963年マレーシア・グランプリレース(600cc以下)でライバルを抑えて1位から3位まで独占する快挙を遂げ、高性能ぶりをアピール。1964年5月までに約10,000台が生産され、三菱自動車の発展の原動力となりました。” ◎引用:三菱オートギャラリー表示

ソニートリニトロンカラーのCM(1973年)

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=6TUqAoVR9Gk]73年のソニートリニトロンカラーのCM。 「僕、タコの赤ちゃん」ってめっちゃ可愛かった^^

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☆番外編(クラシック)35年(昭和10年)式、ダットサン14型ロードスター

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=lhI2pJCJmlI]◎撮影場所 日産ヘリテージコレクション“日産自動車は、1933年(昭和8年)12月の「自動車製造株式会社」設立時点でスタートしました。翌1934年(昭和9年)には現在の日産自動車株式会社へ改称します。さらに、当時の日本では未曽有となる年産2万台規模の本格的な量産に取り組み、翌1935年(昭和10年)に横浜市の新工場で最初に生産されたのがダットサン14型です。722cc・15馬力の新エンジンが搭載されていました。 スタイリングを手がけたのは、工業デザイナー/エンジニアとして著名な富谷龍一氏です。グリルの上に置かれた美しい兎のマスコット(ダット:脱兎:兎が走るイメージ)が目を惹きますが、このマスコットも富谷氏が手掛けたものです。この1935年は、ドイツで初のアウトバーン(高速道路)ができ、ヨーロッパでは高速移動の第一歩が、日本では自動車の大量生産が緒についた年といえるでしょう。” ◎引用:日産ヘリテージコレクション表示 Jidosha-Seizo Co., Ltd. established in December 1933, became Nissan Motor Co.,Ltd in the following year and started full-scale production. At the company's...

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