74年式、スズキ バンバン125(RV125)

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=UHkGT_u5zk0?rel=0] ◎撮影場所 スズキ歴史館 “バンバンシリーズの最大排気量モデル。「ハスラー125」と共通のエンジンで、オフロード車的な性格に加え、5段リターン式ミッションが威力を発揮し、手軽にツーリングも楽しめました。多彩なオプションが設定され、自分だけのバンバンを作ることができました。” ◎引用:スズキ歴史館表示

SONY ポータブル電子計算機『SOBAX』(1967)

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=pe_TjO1GwOY?rel=0]◎撮影場所 ソニービル “電子ソロバン、現在の電卓に活かされているオペーレーティングシステムの基礎となる仕組みを数多く開発、搭載された。ただし重量6.3Kgで価格は26万円という代物だった。” ◎引用:ソニービル表示67年の大卒国家公務員初任給が、25,200円の時代に260,000円。個人で持つ感覚はまず無かったでしょうね!

昆虫物語 みなしごハッチ(1970年4月〜)

毎回毎回良く泣かされました。 本当に感動しましたねー。テレビアニメでここまで涙するアニメってないんじゃないでしょうか?? 昆虫同士の残酷な戦いや、愛や、友情にぐんぐん引き込まれていきました。。 人気だったからでしょう。74年には『新みなしごハッチ』。そして89年に『第1作のリメイク版』も放映されたようです。今からでも、全て見てみたいですねー。[youtube https://www.youtube.com/watch?v=1Ss97eG8ZXE] 出典:youtubeストーリー “スズメバチに襲われ母と離れ離れになってしまった主人公ミツバチのハッチがまだ見ぬ母を探して苦難の旅をするストーリー。ハッチがまだ卵の頃にシマコハナバチのおばさんに拾われ育てられていたが、自分がミツバチの子であることを知り、本当の母を探しに旅に出る。ほぼ毎回悪役にいじめられたり、他の虫の死に遭遇するなど子供向けアニメにしては悲劇的なストーリーが多い。” ◎引用:wikipedia

72年式、スズキ ジムニー LJ20

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=sr8GjSnewys?rel=0]◎撮影場所 スズキ歴史館 “新開発の水冷エンジンを導入した『LJ20』は、馬力やトルクが向上したことで最大傾斜35度の優れた登坂能力を発揮するなど、『LJ10』に比べて四輪駆動車としての性能が飛躍的に向上しました。また、幌を脱着する操作の簡素化やヒーター効力を高めるなどの利便性も向上しています。なお、ジムニーのバンタイプは、この車種から採用されました。” ◎引用:スズキ歴史館表示

85年式、日産、レパード 4ドアH/T 200X ZGX

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=ck_u5mrchmY]◎撮影場所 日産ヘリテージコレクション“「新ジャンルのニューエージカー」を掲げて登場した初代レパード。エクステリアはダイナミックなエアロフォルムが特徴で、当時の日本車最小となるランプ傾斜角(26.5度)のスラントノーズ、強い傾斜のAピラーなどにより、Cd値0.37の優れた空力性能を達成しました。インテリアは総ソフトトリムの豪華な仕上げのほか、世界初の電子マルチメーター、ドライブコンピュータ、日本初のオートボリュームコントロールオーディオ、チルト&テレスコピックステアリング、オートエアコン などの充実装備です。機構面ではゼロスクラブサスペンションやベンチレーテッドディスクブレーキが新機軸でした。最上級の「SF-L」は、日本初のオートレベライザーを搭載し、卓越したハンドリングを実現したモデルです。ボディ構成は4ドアと2ドアのハードトップで、エンジンはL28E、L20E、Z18S型の3機種、1981年(昭和56年)7月には、L20E型ターボが追加されました。また、1982年(昭和57年)9月にマイナーチェンジを受け、フロントグリルが透明樹脂製になりました。このクルマは、1982年のマイナーチェンジの際に登場したノンターボ系の最上位グレード、「200X ZGX」です。ASCD(クルーズコントロール)やオーディオスイッチを備えた、世界初の光通信ステアリングスイッチ、などが標準装備されていました。” ◎引用:日産ヘリテージコレクション表示 Leopard 4-door Hardtop 200X ZGX The first-generation Leopard (F30), with its innovative styling and advanced technologies, was presented as a “new genre,...

67年式、ホンダ ドリーム CB450D スーパースポーツ

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=Va97dfgvGS0]◎撮影場所 ホンダコレクションホール“左右アップエキゾーストとティアドロップ型タンクが特徴の対米向けD=デザートスクランブラー。CL450及びCB450K1のルーツで、各種のパーツはキットでも販売。” ◎引用:ホンダコレクションホール表示 HONDA DREAM CB450D SUPER SPORTS The D stands for Desert Scrambler. This machine made for export to the U.S.A., featured left and right upswept...

55年式、トヨペット クラウン デラックス

  [youtube https://www.youtube.com/watch?v=Mea517EU-2c]◎撮影場所 東京MEGAWEBヒストリーガレージ“他社が欧米自動車メーカーとの技術提携を行うなか、トヨタ自動車が1955年に発売した純国産の本格的乗用車。当時の国産乗用車はトラック用シャーシに乗用車ボディを架装した営業向け(タクシー用)がほとんどでしたが、クラウンは乗り心地に優れた前輪駆動縣架を採用するなど、当初から自家用車を想定して開発されました。展示車は装備を充実したデラックスタイプで、国産車がデラックス化へ向かう契機となりました。” ◎引用:東京MEGAWEBヒストリーガレージ表示

ブラザー ピコワード(日本語パーソナルライター)1984年

みなさんワープロの黎明期って覚えてます? 話した言葉を文章に変えたり、録音したテープを文章化したり、、みたいなそんな凄いことをやってくれるとてつもなく高価なワードプロセッッサー、つまりワープロが、80年代に入った頃、ぼちぼち登場し始めた頃を記憶しています。 ただし、これはとてつもなく高額だったので、個人が持つなんて考えられませんでした。 そんなとき、私の前に突如現れたのが、このブラザーから出た『ピコワード』でした。 ワープロとは呼ばず、『日本語パーソナルライター』と呼んでましたね! 即買いでした^^ ただし、今のワープロの機能とは程遠く、キーの配列が日本語入力の場合は五十音配列になってて打ち辛く、変換機能もまだまだで、文字のドットの数も、16×16ドットと、それはそれは美しくない文字でした(笑) それでも、当時としては、もの凄い先進マシンを持ってる感じでした。 なんだけど、あまりの使いにくさに、 シャープの『X1ターボ』っていう、ディスプレイがテレビも見れるという世に出始めたばかりのパソコンを買って(一式で60万円超えてたなあ月賦で買いました^^)、 ワープロ代わりにしてたことを覚えてます^^画像出典元:私的電脳小物遊戯 様

82年式、いすゞ ピアッツァ JR130型

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=9LBVqTJ-mx0]◎撮影場所 トヨタ博物館 “流麗なスタイルで人気の高かった117クーペの後継モデルとして1981年に登場。ジュジアーロデザインのボディは、1979年ジュネーブショーに出展されたショーカー「アッソ・デ・フィオーリ」(イタリア語でクラブのエース)がほぼそのままの形で市販化された。ウェッジシェイプを基調にしたスタイルは丸みを帯びた美しいもので車体表面の凹凸を廃したフラッシュ・サーフェイスが特徴。電動式1/4リトラクタブル・ヘッドライトカバー、サテライト・スイッチ、デジタルメーターなど先進的な装備を備えていた。” ◎引用:トヨタ博物館

62年式、三菱 コルト 600

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=sd9JReQyTeQ?rel=0]◎出典: 旧車パラダイス “『コルト600』は『コルト』の名を冠した最初の車で、1962年(昭和37年)6月に発売しました。『三菱500スーパーデラックス』が、マカオ・グランプリレースで優勝を飾るなど、専門家からはその性能が高く評価されていましたが、各社から多彩な軽自動車が出始め、税法上などで有利な軽自動車に人気が集まっていました。この状況を打破するため、『三菱500スーパーデラックス』のシンプルすぎるといわれたスタイルと装備を一新。ボディの前半分と後端の外形を細長く、やや尖ったスタイルに変更するとともに、インテリアをリファイン。モノコックボディ、リヤエンジン、リヤドライブは継承しながら、コラムシフト、ベンチシート、拡大されたトランクルームなどにより商品力を向上させました。このクルマも、1963年マレーシア・グランプリレース(600cc以下)でライバルを抑えて1位から3位まで独占する快挙を遂げ、高性能ぶりをアピール。1964年5月までに約10,000台が生産され、三菱自動車の発展の原動力となりました。” ◎引用:三菱オートギャラリー表示

映画 大怪獣空中戦ガメラ対ギャオス(1967年)

67年でしたかあ、あの頃、そりゃあもう、『ガメラ対ギャオス』の子供目線へのCMは凄まじかったですね〜。いろんな雑誌にも登場し、学校での会話は『ガメラ対ギャオス』一色みたいな時期もあったなあ。 ガメラ、子供の味方で、愛されてました^^あらすじ “富士火山帯に属する明神礁・三宅島雄山が噴火。さらに富士山が噴火し、噴火の熱におびき寄せられガメラが飛来し、炎を食い始める。ガメラの調査のために記者会見が行われ、取材陣や科学者を乗せたヘリコプターが飛び立ったが、二子山上空で地中から放出される緑色の光を目撃後、突如黄色い怪光線によって真っ二つにされ墜落する。 一方、東名高速道路建設予定地である二子山そばの山村では、金丸村長の旗振りのもと、用地賠償金の吊り上げを狙った「反対同盟」の激しい妨害が続いており、早期決着を迫る道路公団開発局との間で、工事責任者の堤主任は頭を悩ませていた。金丸村長の孫・英一は二子山を遊び場にしていたが、怪光現象の取材にやってきた新聞記者に案内を頼まれて共に二子山に向かい、不気味な洞窟に入ったところで突然の地震に見舞われる。英一を見捨てて逃げ出した記者は、巨大な手に捕まれ、空中高く持ちあげられる。記者の眼前に迫る、超音波怪獣ギャオスの巨大な顔。記者はギャオスに食われてしまい、続いて英一が捕まえられる。二子山の怪光現象は、富士火山帯の異常活動によって目覚めた怪獣ギャオスの巣穴が放ったものだったのだ。 駆け付けた堤たち建設作業員の目の前で、今まさにギャオスに食われそうになる絶体絶命の英一。そこへ間一髪、ガメラが飛来。ギャオスは甲高く叫ぶとともに、その口から黄色い怪光線が放たれ、光線はガメラの腕を鋭く斬り裂く。調査団のヘリを切断したのはこのギャオスの超音波メスであり、彼らはすべて人食い怪獣ギャオスに捕食されていたのだ。ガメラは英一を甲羅に乗せて脱出し、遊園地で降ろしたあと、海底深くに沈んで傷の治癒に努める。 英一の証言によって怪獣は「ギャオス」と正式に名付けられ、その人肉を好む生態が明らかになり、ただちに防衛隊の空陸一体作戦による戦闘機攻撃が始まった。しかしギャオスの超音波メスの前に、たちまち全滅してしまう。「ギャオスはおやつ前には出てこない」との英一の言葉から、夜行性のギャオスの性質が明らかとなり、堤主任の提案で強力照明弾「AGIL」が使用され、ギャオス封じ込め作戦が採られる。工事現場では作業員の離脱が相次ぎ、堤と熊、八公の3人が残るのみとなった。一方、村でもギャオスのために家畜が全滅し、深刻な被害が地元を襲う。 ギャオスの超音波メスによって破壊される「名古屋城天守閣」 やがて空腹となったギャオスは「AGIL」照明弾を潜り抜け、夜間名古屋市上空へ侵入。名古屋城天守閣を超音波メスで破壊、新幹線の乗客を食らい、蹂躙の限りを尽くす。光に弱いギャオス対策のために、照明を全開にした中日球場が緊急避難所となり、不安におののく大勢の人々。そのとき、ギャオスの前に傷の癒えたガメラが飛来。名古屋上空に、激しい大怪獣空中戦が展開される。ギャオスが腹から出す霧状の黄色い消火液によってジェット噴射を止められたガメラは伊勢湾に落ちるが、ギャオスの脚をくわえ、海に引きずり込もうとする。夜明けが近づき空が赤らみ始めると、ギャオスは頭を紫色に光らせ、にわかに苦しみ出す。ギャオスは苦し紛れに自らの足を超音波メスで切断し、二子山へと逃げ帰るのだった。 運行4年目の新幹線がギャオスの超音波メスによって屋根を破壊される 翌朝、名古屋港に流れ着き対策本部に接収されたギャオスの片脚は、紫外線を浴びてみるみる縮んでいく。ギャオスは日光、紫外線を浴びると細胞が死滅する完全夜行性の動物だったのだ。その頃ギャオスは巣穴で、失った片足首を一晩で再生させていた。「ガメラは回転しなかったから甲羅の上でも目が回らなかった」との英一の言葉から新作戦が決定。人工血液の噴霧でギャオスをおびき寄せ、ホテルの回転展望ラウンジで目を回させ、夜明けまで足止めさせる「回転作戦」が実行に移される。作戦は成功するかに見えたが、無理な電圧に回路がショート、夜明けまであと少しのところで失敗してしまう。 一方村ではギャオス出現による高速道路ルート変更決定のために、村人たちと金丸村長の仲違いが始まった。激しく責め寄る村人を泣いて追い返す英一に、金丸は欲に駆られた自らの浅ましさを恥じ、英一の言に従って持ち山に火を放ってガメラを呼び寄せることを決意する。激しい山林火災に急行し、胸から黄色い消火液を噴霧するギャオス。そのとき英一たちの目の前に、ガメラがやってくる。英一の声援を背に、ガメラとギャオスの二大怪獣の最後の戦いが始まった。ガメラは切断光線に苦慮しつつも一瞬の隙にギャオスを急襲、背後から首に噛みつく。弱々しくも抵抗するギャオスをガメラは腹で押すようにして飛び立ち、富士山火口に引きずり込む。火口から切れ切れに出る切断光線が、ギャオスの最後を示していた。” ◎引用:wikipedia

56年式、トヨペット マスターライン バン

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=CN1Tpm3P8Hc?rel=0]◎出典: 旧車パラダイス “マスターラインは、乗用車なみの乗り心地を備えた商用車として、人気を集めた。このライトバンのほか、ピックアップ、ダブルキャブピックアップの3タイプがあり、展示のように、町のモータースでもサービスカーなどに使われたことだろう。” ◎引用:トヨタ博物館表示 The Masterline gained popularity as a commercial-use vehicle featuring the ride comfort comparable to a passenger car. Aside from the light van shown...

77年式、日産 フェアレディZ-L S31

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=1T2xlqRLmAI?rel=0] ◎出典: 旧車パラダイス “初代フェアレディZ(S30型)は、オープンボディの先代「フェアレディ」に替わり、1969年(昭和44年)に誕生しました。エンジンは直列6気筒、SUツインキャブレターを装備したOHCのL20型と、ソレックスツインチョークキャブレターを3基搭載したDOHCのS20型がありました(S20型は1973年に廃止)。1976年(昭和51年)1月には、昭和51年排出ガス規制に対応するため、L20型エンジンはSUツインキャブレターを電子制御式燃料噴射装置に改良したL20E型に変更され、型式もS31型となりました。このクルマは、1977年式のS31型Z-Lです。Z-Lは、S30型系に設定されたグレード名で、装備を充実させた上級グレードです。” ◎引用:日産ヘリテージコレクション表示

65年式、ヤマハ YM1

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=PUgZ5a-6MLc]◎撮影場所 ヤマハコミュニケーションプラザ“1959年に登場したYDSシリーズの流れを汲む高性能スポーツモーターサイクルのフラッグシップモデル。高速道路時代に対応し、当時の2ストローク最大排気量305cc・2気筒エンジンに、分離給油機構「オートルーブ」、ツイン・キャブレター、5段変速機を装備。400mまでの発進加速14.7秒、最高速度160km/h以上という俊足を誇った。” ◎引用:ヤマハコミュニケーションプラザ YM1 Carrying on the heritage of the YDS Series, the YM1 was the flagship model of Yamaha’s sport bikes and capable of higher speeds...

瓶入りバヤリース

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=y4qxc_Z0XGw?rel=0]子供のころ、駄菓子屋には置いてなくって、すごーく高級品に感じてました。誕生は1951年(昭和26年)、アサヒ飲料から発売されました。ただ、起源はもっと古く、1938年(昭和13年)に米国の科学者、フランク・バヤリーさんが、果汁の風味・香りを損なわないで長期間保存できる殺菌法を開発。その特許を米国のゼネラル・フーズが買いとって、「バャリース・オレンヂ」を発売したとか。 日本上陸は紆余曲折あり、最終的に1951年(昭和26年)に当時の朝日麦酒がバャリース・オレンヂの販売契約を締結して、現在に至るようです。 そして、1953年には、250ml缶が誕生し、あの『オレンヂ坊や』もそのタイミングで生まれたとか。

兼高かおる世界の旅(1959年12月〜1990年9月)

日曜日の朝、この番組を見ることが習慣でしたー。 30年間も放映された番組でした。 兼高かおるさん、今でもずっと動いてらっしゃるのかなあ? ジャーナリストとして、アクティブでとても美しい方でしたよね〜。 女性として世界で初めて南極点に到達したことでも有名な方でした!“ジャーナリストの兼高かおるがディレクター、プロデューサー、レポーター、ナレーター、そして時にはカメラマンすべてを兼ね、世界各地160か国を取材した映像を放送していた。 放送開始当初のタイトルは『兼高かおる世界飛び歩き』( - とびあるき)だったが、1960年6月19日放送分をもって一旦中断し、同年9月20日放送分から放送を再開し、『兼高かおる世界の旅』に改題した。放送回数は『世界飛び歩き』を含めて、1586回。全行程は721万kmであり、地球を180周した計算になる。 単に映像を放映するだけではなく、ナレーションとして、兼高が芥川隆行に旅行の状況を語る。ただし『世界飛び歩き』時代は、芥川でなく別のTBSアナウンサーが、紹介する国の概要などをナレーションするなどその都度間に入り、それとは別に、兼高は旅先であったことなどの詳細をナレーションするという形で番組は進行していった。ちなみに、兼高のナレーション参加は番組開始当初から一貫して行われていた。「世界の旅」に鞍替えしてからも同様の構成で、特に変更は無かった。しかし、途中から落合と簡単な会話をしつつ番組が進行するという形に変化していった。そして、(再放送等で確認できる限りにおいて)42回目ごろには担当が芥川に変わり、両者の会話も非常に活発になって兼高自身も生き生きと語るようになり、この形式が、番組終了まで続いた。” ◎引用:wikipedia

75年式、三菱 ランサー セレステ1600GL

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=jmMObUNibVA]◎撮影場所 三菱オートギャラリー “ランサーセダンをベースに、多彩なバリエーション展開で市場アピールを狙ったスポーティバージョン。フロントノーズを思い切って伸ばしたハッチバッククーペで、ランサーで培われた基本性能の高さと流麗なスタイルにより若者の心を捕らえた。” ◎引用:三菱オートギャラリー表示

SONY ポータブルテレビ・Mr.ネロ(1977)

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=QIwAd-L8ABw?rel=0] ◎撮影場所 ソニービル “重量3.3kgのポータブル白黒テレビ。ブラウン管が90度回転するので、縦横どちらにおいても使える点が大きなポイント。横になって、寝ながらでも見られることから、Mr.Nello(ミスターネロ)の愛称で発表した。” ◎引用:ソニービル表示

79年式、ホンダ シビック CX

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=-ZNY75dNXxw]◎撮影場所 ホンダコレクションホール “二代目シビックとして7年目に初めてモデルチェンジを実施。伝統の台形デザインを踏襲して、さらにスマートにワイドに大型化、快適性もより一層増した。” ◎ホンダコレクションホール表示

70年式、マツダ ファミリア プレスト ロータリークーペ

[youtube https://www.youtube.com/watch?v=KHpUbukuTCQ?rel=0] ◎撮影場所 マツダミュージアム“1968年7月に登場したファミリアロータリークーペです。当時は大衆車がより高性能化への道を歩み始めた時で、このロータリークーペも、真にその流れの中で、パイオニア的役割を果たしました。価格は70万円で、100馬力の動力性能はロータリーフィーリングを体感でき、クーペスタイルのこの車は人々に大きなインパクトを与えました。” ◎引用:マツダミュージアム表示